" /> 【遠き落日】借金、情熱、そして不屈の努力。私たちが知る伝記を覆す圧倒的人間ドラマ | 本読み広場

【遠き落日】借金、情熱、そして不屈の努力。私たちが知る伝記を覆す圧倒的人間ドラマ

昭和の文学(戦後)

子供の頃に読んだ偉人伝のイメージを、良い意味で根底から覆してくれる一冊です。稀代の天才・野口英世のエネルギーの源泉がどこにあったのか。医師免許を持つ著者ならではの視点で、生身の人間としての苦悩と歓喜が鮮烈に描かれています。

著者・遠き落日の創作の原点

著者である渡辺淳一氏は、自身も整形外科医として医療の現場に身を置いていた経歴を持ちます。そのため、命と向き合う人間の極限状態や、医学的な事実に基づいた描写には他の追随を許さないリアリティがあります。本作は、それまで「清廉潔白な聖人」として語られがちだった野口英世という人物を、医師としての冷静な目と、人間ドラマを描く作家としての情熱を融合させて描き出しました。

1979年に発表された本作は、吉川英治文学賞を受賞するなど、評伝文学の金字塔として日本文学界に大きな衝撃を与えました。明治という、封建的な価値観から近代へと突き進む激動の時代背景の中で、一人の男がいかにして世界へと羽ばたいたのか。その背景にある母・シカの深い愛情と、野口自身の強烈な自己顕示欲を見事に浮き彫りにしています。

どんな物語?

1979年(昭和54年)の作品

福島県の貧しい農家に生まれた清作(後の野口英世)は、幼い頃に左手に大火傷を負う。農作業ができない体となった彼は、学問で身を立てることを決意並外れた集中力と周囲を巻き込む不思議な魅力で、恩師や友人の助けを得ながら医学の道を突き進む。しかしその裏では、奔放な金遣いや驚くべき放蕩生活が繰り返されていた。

感想(ネタバレなし)

野口英世の生涯を描いたこの作品は、子供向けの伝記のイメージとは違い、研究に対する情熱や、苦悩、そしてこれでもかというほどの借金を重ねていく様子など、生身の人間としての野口英世が壮大なドラマとして描かれています。読み始めてすぐに、私たちが知っている「千円札の偉人」という静止画のようなイメージが、熱量を持った一人の男として動き出すのを感じました。

貧困や不自由な左手などの様々な困難を抱えながらも、それに屈するどころか自身の原動力として、ひたすらに努力して生き抜いていく様子には、心を揺さぶられます。普通の人なら諦めてしまうような逆境を、彼は知力と体力、そしてある種の図々しささえ武器にして突破していきます。その姿は、決して綺麗事だけではない、泥臭い生命力に満ち溢れています。

後に偉人と呼ばれるほどの実績を持ちながらも、一方では決して聖人君子とは言えない面も併せ持った人柄は、時には共感を呼び、とても魅力的に感じられます。特にお金に関するエピソードは衝撃的で、留学資金を放蕩で使い果たしてしまうなどの破天荒さには驚かされますが、それすらも彼の持つ「巨大な欠落」を埋めるためのエネルギーに見えてくるから不思議です。

印象深かったのは、同僚たちに「人間発電機」というあだ名をつけられたり、「野口はいつ起きて、いつ寝ているのか」などと噂されるほどに、努力に努力を重ねていく様子です。渡辺淳一さんの筆致によって、彼が顕微鏡に噛みつくようにして研究に没頭する姿が、目の前に浮かび上がるようでした。目標に向かってひたむきに走り続けることの尊さを、感じずにはいられません。

これほどの熱量を持って生きることは、現代の私たちには難しいかもしれません。しかし、だからこそ人生に迷いや困難を抱えている人にとっても、多くの熱量を与える力があると思いますし、野口英世の生き様は、自身の状況を打開するための多くの発見と勇気を与えてくれるはずです。

読み終えたとき、私は野口英世という人物が以前よりもずっと好きになりました。完璧な人間などいない。欠点があるからこそ、その成し遂げた偉業がより一層、輝いて見える。そんなことを教えてくれる深い読書体験でした。

こんな人におすすめ

  1. 子供の頃に読んだ野口英世の伝記に、どこか物足りなさを感じていた人
  2. 天才と呼ばれる人物の、泥臭い裏側や人間的な葛藤を知りたい人
  3. 仕事や勉強に対して、圧倒的なモチベーションや刺激を求めている人
  4. 渡辺淳一が描く、骨太でリアリティのある歴史ドラマを堪能したい人
  5. 逆境を跳ね返すための知恵や、情熱の燃やし方を学びたい人

読んで得られる感情イメージ

  1. 圧倒的な熱量に触れ、自分も何かに没頭したくなるような高揚感
  2. 偉人の人間くさい一面を知り、どこか救われるような親近感
  3. 貧困や障害に負けず世界へ挑む姿に胸が熱くなる感動

読みどころはココ!登場人物・設定の深掘り

本作を語る上で絶対に欠かせないのが、英世の母・シカの存在です。彼女は文字も書けず、貧しい農村で苦労を重ねながらも、息子のためにすべてを捧げます。シカが英世に宛てた、たどたどしい言葉で綴られた手紙のシーンは、本作の情緒的な核となっており、読者の涙を誘います。この母の無償の愛があったからこそ、英世はどんなに遠い異国の地にあっても、孤独に耐え抜き、研究に没頭できたのだと痛感させられます。

また、英世を支える恩師や友人たちのキャラクターも非常に深掘りされています。英世は天才的ですが、同時に周囲の人間を「その気にさせる」天才でもありました。彼に振り回され、お金を貸し続け、それでも彼を嫌いになれない友人たちの姿は、英世の持つ異常なまでの人懐っこさと、放っておけない危うさを物語っています。

さらに、舞台設定としての「明治の日本」と「アメリカ」の対比も見どころです。封建的な田舎町から、最新鋭の科学が集うペンシルベニア大学へ。文化も言葉も違う環境で、東洋から来た小柄な男が、いかにしてエリートたちを認めさせていったのか。その格闘の記録は、現代のグローバル社会を生きる私たちにとっても、多くの教訓に満ちています。

「天才」の定義が塗り替えられる、魂を揺さぶるノンフィクション・ノベルの決定版

 歴史上の偉人を教科書の中の存在から、血の通った一人の男として再生させた本作。その圧倒的な取材量に基づく描写は、単なる物語を超えて、私たちの生き方そのものを刺激する価値を持っています。

 読後の余韻をどう楽しむ?

読了後、千円札に描かれた野口英世の肖像をぜひ見つめてみてください。昨日までとは、その表情の意味が違って見えるはずです。彼が抱えていた劣等感や、世界一を渇望する野心の正体は何だったのか。また、彼が命を賭して研究した病原体との戦いは、現代の私たちに何を問いかけているのか。本作を読み終えた後、吉村昭氏の医学小説や、他の渡辺淳一作品と読み比べることで、命を記録することの重みをより深く味わうことができるでしょう。

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